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名古屋高等裁判所 昭和50年(ネ)338号 判決

控訴人

株式会社 三晃社

右代表者

松波金彌

右訴訟代理人

本山享

外二名

被控訴人

加藤紘一

右訴代訟理人

早川登

外一名

主文

一  原判決を取消す。

二  被控訴人は控訴人に対し金三二万四、〇〇〇円およびこれに対する昭和四八年九月一六日から右完済まで年五分の割合による金員を支払え。

三  訴訟費用は、第一、二審とも被控訴人の負担とする。

事実《省略》

理由

一控訴会社は、本店を名古屋市に置き、その他全国五か所に支社、営業所を有し、新聞広告、一般広告代理業、出版、印刷、看板の製作、保険代理店を営むことを目的とする株式会社であること、被控訴人が昭和三八年春ごろ控訴会社に入社し、同四八年七月二〇日退職し、同日控訴会社より退職発令を受けたこと、被控訴人は、退職に際し、自己都合退職乗率に基づき計算された退職金六四万八、〇〇〇円を受領し、今後同業他社に就職した場合には退職金規則の規定するところに従い受領した退職金の半額三二万四、〇〇〇円を控訴会社に返還する旨約したことはいずれも当事者間に争いがない。

二また、控訴会社の就業規則には、その第五四条で、勤続三年以上の社員が退職したときは、別に定めるところにより退職金を支給する旨規定されており、これに基づき退職金規則が制定され、その第三条には、退職金は退職発令後本人より請求があつたときから七日以内に支払う旨規定され、同規則別紙退職事由別支給乗率表によると、退職後同業他社へ転職のときは自己都合退職の二分の一の乗率で退職金が計算されることになつていることは、被控訴人において明らかに争わないからこれを自白したものとみなす。

三〈証拠〉を総合すると

(1)  被控訴人は、控訴会社へ入社以来退職するまでの約一〇年間広告の蒐集、スポンサーからの出稿を取りにいくなど一貫して営業関係の仕事に携わり、同人が取扱つていた顧客はトヨタ自動車、中日パレスなど四〇社位あつたこと、控訴会社ではチーフと呼称され係長待遇であつたが、正規の管理職の地位にはなかつたこと、なお退職時の基本給は九万二、四八〇円であつたこと、

(2)  被控訴人が控訴会社に入社するに際し、退職後控訴会社と同一業種の他会社に服務し、或いは自営するときは必ず事前に控訴会社の承諾を得る旨、誓約し、右条項を含む誓約書(昭和三七年一〇月二〇日付)を差入れていること、

(3)  控訴会社の退職金規則によると、昭和四六年四月一日に同規則が施行された当時は、控訴会社の社員が退職後(イ)広告代理店(ロ)広告のデザイン、コピー、写真、製版、印刷、録音、フイルムの製作を行なう業社(ハ)広告の企画、調査を行なう業社に服務したり、またはこれらの業を自営するときは、懲戒解職されたときと同じく、退職金は支給されない定めとなつていたこと、しかし、その後の改正によつて昭和四八年六月一日以降は、退職事由が会社都合、退職後同業他社へ転職の三者に対応する支給乗率で支給されるようになり、同業他社へ転職のときの支給比率は前記二のとおりとなつたこと、控訴会社では従業員に対し就業規則等会社諸規則を交付し、規則改正の際にはその改定を周知徹底させていたこと、なお、控訴会社の労働組合は右改正内容についても反対の意見を表明し、会社側に無条件即刻支払いを求めていること、

(4)  控訴会社では、同社のような中小の広告業者においては、営業社員と広告依頼主との人的結びつきが強く、したがつて、社員が同業他社へ転職すれば、それにつれて顧客も他社へ流れる危険性が極めて強く、それとともに営業収入も低下することから、(現に被控訴人の転職に伴い被控訴人が担当していた控訴会社の顧客が若干訴外株式会社第一広告社に移つていることが認められる。)これを防止するため、右規定の必要性を認めていること、

(5)  被控訴人は昭和四八年七月二〇日ごろ控訴会社と同業の株式会社第一広告社より入社の勧誘を受け、同年八月九日同社に正式に入社し、副部長の肩書を貰つていること、

(6)  被控訴人は控訴会社を退職した翌日、自己都合退職を事由とする退職金を請求し、退職金を受領する直前に念書を差入れ、前記一のような約定をなしたこと、

以上の事実が認められ、他に右認定を左右するに足りる証拠はない。

四右認定の諸事実を併せ考えると、被控訴人が控訴会社を退職後就職した訴外株式会社第一広告社が控訴会社と競業関係にあり、いわゆる同業他社にあたることは明らかであるから、前記控訴会社の就業規則、退職金規則に基づき被控訴人の退職金を計算すると、控訴会社から支給を受くべき確定退職金額は金三二万四、〇〇〇円となる(もつとも、本件では被控訴人は自己都合を事由に退職し、その直後同業他社たる第一広告社へ就職しているが、このような場合でも被控訴人は同業他社へ転職しないことを条件として自己都合乗率に基づく退職金六四万八、〇〇〇円を受領し得る権利を有するに過ぎないのであつて、右条件が成就するまでは退職金額は確定していないといえる。このことは控訴会社では退職時同業他社へ転職が決つている者からは〈証拠〉のような念書を取らないが、それ以外の者からは取る建て前になつていることからも裏付けられる。)。

五ところで、被控訴人は本件退職金規則の制限規定自体およびその適用の無効を主張するので、以下検討する。

(1)  控訴会社の本件退職金規則は、労働組合もその内容につき同意していないことが認められるけれども、就業規則およびこれに付随する退職金規則等の規定は、当該事業場内での社会的規範にとどまらず、それが合理的な労働条件を定めているものである限り法規範性が認められるに至つているものと解すべきであるから、当該事業内の従業員は右就業規則等の存在および内容を現実に知つていると否とにかかわらず、またこれに対して個別的同意を与えたかどうかを問わず、当然それらの適用を受けるものというべきである。

(2)  前記事実関係によると、本件退職金は退職金規則においてその支給基準が予め明確に規定され、控訴会社が当然にその支払義務を負うものというべきであるから、労基法一一条の「労働の対償」としての賃金に該当し、したがつて、その支払については同法二四条一項本文の定めるいわゆる全額払の原則が適用されるものと解するのが相当ある。しかしながら、右全額払の原則の趣旨とするところは、使用者が一方的に賃金を控除することを禁止し、もつて労働者に賃金の全額を確実に受領させ、労働者の経済生活をおびやかすことのないようにしてその保護をはかろうとするにある(最高裁判所昭和四八年一月一九日第二小法廷判決民集二七巻一号二九頁参照)。

ところで弁論の全趣旨によると、控訴会社の退職金制は全額使用者負担となつていて、従業員の積立方式あるいは一種の共済方式によるものではないことがうかがわれる。かかる方式の下では、退職していく従業員に対しどの程度の退職金を支給するかは使用者側において或る程度裁量的に定め得るものと解される。退職金の支給額(率)につき、会社都合による退職と自己都合による退職とで差異を設けることは広く行なわれており、更に自己都合退職の場合でも法律の規定または公序良俗に違反しない限り、退職事由によつて算定基準に差異を認めることも許されるものと解する。本件の場合、同業他社へ転職の場合は、単なる自己都合退職の際の半額しか退職金を支給しないという退職金規則の規定は、まさしく右に該当する場合の退職金の支給基準を定めたこととなり、その要件を充足するときは、退職金のその支給割合に応じた数額しか発生しないことを意味する。しかも、退職事由により退職金支給算定基準が異なることは、予め控訴会社従業員には周知され判明している以上、従業員において同業他社へ転職するか、他の企業へ行くか、そのまま残るかの利益、不利益を十分比較できるのであつて、そのいずれを選択するかは専ら従業員の意思に委ねられているのである。もつとも、本件退職金規定の改定経過にかんがみると、控訴会社が退職金の支給額(率)に差異を設けることによつて、従業員の足止めを図ろうとする意図は看取し得るけれども、だからといつて原審判示の如く、直ちに右規定が実質的に損害賠償の予定(実質的に損害賠償の予定とするためには経済的にみて債権者が蒙むるであろう損害額と予定額との間に相当程度の関連性のあることを要するものと解されるところ、本件の場合両者間にほとんど実質的関連性は認められない。―〈証拠〉参照)を定めたものとして労基法一六条に違反するものとはいえないし、また本件退職金制度による支給実態にかんがみ、この程度の減額支給が従業員に対する強い足止めになるとも考えられないので、これが民法九〇条に違反するとも断定できない。

〈証拠〉によると、控訴会社と同業の電通、大広といつた会社には、同業他社へ転職の場合、本件のような退職金の減額支給条項は定められていないことが認められるが、右二社は全国的な営業網を有し、かつ経営基盤も固まつている大手業者である。これに対し中小企業者である控訴会社のように、営業は専ら営業社員と顧客との個人的結びつきに頼つている場合は、営業社員が同業他社へ転職すると、それに伴つて顧客も同業他社へ移る傾向が強く、それだけ会社にとつても不利益となることから、同業他社へ転職の場合は単なる自己都合退職の場合と区別して低い算定基準で算出した退職金を支も給するのとして従業員の企業への定着を期待する程度のことは、企業防衛上已むを得ないものと考えられ、このことは会社の承認を得ず在籍のままに他に雇用されたとき懲戒解雇事由とされ、退職金も零となる旨の就業規則と併せ合理性あるものというべく、もとより労基法二四条の全額払の原則に反するともいえない。一般に広告業界などにおいては、野心または手腕のある営業社員ほど同業他社へ転職する傾向が強く、転職社員は転職前の顧客を就業先の新たな顧客としており、かつ、地位ないし収入も転職後は転職前のそれを上廻つていることも経験則上明らかである。なお、〈証拠〉によると、被控訴人においては、退職するにつき、切迫した特段の事情も認められないばかりか、アラスカ方面へ旅行し帰朝後は家業の不動産業を手伝うとかの理由で退職し、退職後間もなく控訴会社と競業関係にある訴外会社第一広告社に入社し、控訴会社当時被控訴人が担当していた中部トヨタリフト、中日パレス、春日楽器、愛知トヨタなどの顧客も第一広告社の顧客としているものである。

更に、被控訴人は本件退職金規定の適用につき、平等原則違背ないし不当労働行為に該当する旨主張するけれども、本件全証拠によるも右主張を認めるに足りない。

してみると、本件はあくまで退職金算定基準に従つて算出された退職金額を超える部分の返還を求めるものであつて、退職金規則自体ならびにその適用につき被控訴人主張のような無効事由は存しない。

被控訴人の場合、本件退職金規則に定める退職事由の同業他社へ転職したときの要件に該当するので、右要件を充足する算定基準に従つてのみ退職金額は確定するのであり、しかも被控訴人は自己都合支給乗率によつて算定した退職金を受領の際、今後同業他社へ転職するに至つたときは、退職金規則の趣旨に従い今回受領の退職金の半額を返還することも約しているところである。(なお、右は、被控訴人が控訴会社の従業員たる地位を離脱するに際しなされた合意であり、その合意が被控訴人主張張のような事情によるからといつてそれが直ちに抑圧された意思によるということは考えられないから、その効力を認めるのに問題はない。)

そうだとすると、控訴会社請求にかかる金三二万四、〇〇〇円については、被控訴人に退職金請求権は存しなかつたものといえるので、被控訴人が受領した退職金六四万八、〇〇〇円のうち半額の金三二万四、〇〇〇円は本来受領できないで性質あるのに受領したものというべきである。そこで右金員については、被控訴人は法律上の原因なくして控訴会社の財産により不当に利益を得、控訴会社に右同額の損失を及ぼしているところ、右利得が現存しないことの反証もないので、これを不当利得として返還すべき義務があり、かつこれに対する本件支払命令送達の日の翌日である昭和四八年九月一六日から右完済に至るまで民事法定利率による年五分の割合による遅延損害金を支払う義務がある。

六よつて右と異なる原判決は失当であり、本件控訴は理由があるから、民訴法三八六条により原判決を取消し、控訴人の請求を認容することとし、訴訟費用の負担につき、同法九六条、八九条を適用して主文のとおり判決する。

(西川豊長 上野精 大山貞雄)

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